誰もに見に来なくても、ガーデニングをやる価値はあるのか?
自宅の庭を、せっせとガーデニングし、綺麗なお花畑が完成しました。
しかしながら、誰もそれを見に来ません。
果たして、ガーデニングをする意味はあるのでしょうか?
私が話すのは、ガーデニングの話ではありません。哲学の話をします。
私は、ひきこもり当事者の個人ですが「医療法人キタノ会」という名のプロジェクトを開催しています。
具体的な活動としましては「参加者募集!横浜中華街を散策しよう!」などとネットで告知をしています。
しなしながら、実態としましては「完全に無名の変な人が、何らか企画を立てている。」というのが現状でありまして、参加者なんて皆無であることが大多数です。
このような結果でありますのは、極めて自然なことだと言わねばならないことでしょう。
逆に私が、同じようなことをしている人を発見したら、その人の企画に参加するのでしょうか?
よほど「趣味が同じだ!」「すごく気が合いそう!」など、ピンとこない限りは参加しないことでしょう。
これが現実なのでありまして、このことを私は受け止めなければならないのです。
ガーデニングの話に戻ります。
もしも、自宅の玄関の門に「ガーデニングをした、自慢の庭があります。ご自由にご覧ください。」という看板を掲げたお家があるとしましょう。
あなたは見るでしょうか?
私でしたら、玄関より中をチラチラ見るだけにします。
ただ、その家の主としましては、来訪者がお庭を見て回り、そして「綺麗なお庭ですね。」と褒めてもらい、少々の歓談ができることを期待しているのではないでしょうか。
私はキタノ会の活動を通して、新しい人間関係ができることを願っています。
ですが、自前でプロジェクトを開催する方法では、効率が悪いでしょうし、効果も期待できないでしょう。
しかし、お金が無いことや、いい年齢なのに無職で社会性に欠ける点を考えると、既存のグループに参加することは肌に合いそうに思えません・・・。
再びガーデニングの話に戻ります。
誰もお庭を見に来なくても、少なくとも雑草生え放題の荒れた状態にないことは事実でありましょう。
また、自分なりに頭の中にある世界観を表現できたことも、自己肯定感を生むことでしょう。
残念ながら、孤独である点は解消できていませんが、それでもメリットが皆無なわけではありません。
私が「キタノ会」のプロジェクトを続ける理由も同じです。
自宅にこもっても、何も得られないからです。
満点ではありませんが、誰も参加せずとも、やる価値は皆無なのでしょうか?