奴隷になることを夢見ているのだろうか
「何も考えずにいられた、子供時代に戻りたい」
精神病を患う方々が、幼少期を振り返って、このように願うコメントを何度か見かけました。
私も、辛苦の多い人生から、そのように願ったことがあります。
共感できる願望ではありましたが、今では
「これは奴隷になることを願っているに等しい」
と、脅威に思っています。
幸せな幼少期とは甘美な思い出ではありますが、大きな問題を抱えているのです。
低年齢の人々には、自我が無いことです。
面白い動画あるものなら、それを見てしまうのです。
他に大事な用があったとしても、動画を優先するのです。
この原理はお菓子にも通じます。肥満になろうが、栄養不足になろうが、いかなる自制もできずに食べまくるのです。
抑制できるのは、主体的意思を持った人間なのであり、自我の形成されていない低年齢の人々に可能なのでしょうか。
カルト教団を信仰する家庭に生まれたのなら、子も否応なくその信仰に巻き添えとなります。
たいてい、脱会にいたるのは成人してからであり、批判的思考と行動力が無ければ至れない境地です。
自らの意志で、マイナーな語学を学ぶのは、これも自我の形成された人でないと可能とはならないでしょう。
他方、子供は住む環境を選べず、自分の意志と無関係に居住する地域の言語を母語とします。
私は日本の血を一切ひいていないが、日本で育ったゆえに日本語を母語とし、両親の出身国の言葉を話せない人を知っています。
この人が、何語を母語とするのかは完全に両親の手に委ねられており、当人には選択の余地がありません。
ある程度の年齢になれば、自らの意志による留学が可能となるのです。
これらより、子供には選択の余地が極めて少ないのです。
どうなるのかは、たいていが周囲の状況に左右されてしまうのであり、言わば「運命の奴隷」ではないのでしょうか。
無邪気さの引き換えに、奴隷となることは有益なのでしょうか?
ここで、最悪の実例を挙げましょう。
- 幼少期より実父より性的虐待を受け、それは家を出るまで続いた。
- 薬物の密売人の家庭に生まれ、乳幼児も薬物中毒の状態で保護された。
何ら選択肢をもてず、自由を差し出すこと...即ち運命の奴隷になることを望むのでしょうか。
何を選ぶのかは当人の自由であり、私はその自由を侵害する気はありません。
しかし、幸せな子供時代に戻ることは、大きな価値を失ってしまうように思えてなりません。