「正しいこと」を言うのは半分までにしておくことが、最も正しいようだ
論争とは往々にして発生するものですが、その際に「正しいこと」を主張することは、有効的ではないと思うようになりました。
これは決して虚偽を申せと主張しているのではありません。虚偽は全てにおいて退けるべきです。
しかし、あなたが「正しいこと」を主張しているとき、相手もまた「正しいこと」を主張しているからです。
「正しいこと」の反対は決して「間違い」ではなくて、反対の方も「正しいこと」なのだからです。
具体的なエピソードを挙げたいのですが、これは人間関係を壊しかねないので、私の身辺から離れたエピソードを例に説明します。
ある発展途上国から日本に来た若い女性がいます。
この女性は「懐中電灯は?蠟燭は?」と、日本人にせっつくのです。
理由を聞いてみると、出身国では停電が日常的に発生しており、夜間に明かりをとれないことを懸念していたのです。
日本に長く住んでいる人からすれば
「心配なさるな。日本では電力供給網が安定しており、停電などやたら滅多に起きるものではない。
仮に起きたとしても、すぐに復旧するから安心しなされ。」
と声をかけることでしょう。
事実を並べ立てており、実に理にかなっているはいるのですが、意外にも不適切でもあります。
彼女は停電をさんざ経験してきており、その世界から来た人にとって、電力供給網とは信頼できるものではないのです。
日本で停電を心配する必要はない これは事実なのですが、他方で
電力供給網を信用できない という人生経験も、立派な事実なのです。
となると、日本の人が語るべきは「正しいこと」を語ることを減らすことではないでしょうか。
具体的には
「確かに、日本で100%停電が起きないとは断言できない。
よし、大規模停電の時の備えも兼ねて懐中電灯を準備しましょう。
しかし、日本においては、あなたが想像するよりも遥かに少ない頻度でしか停電は発生しないことでしょう。」
と申すことではないでしょうか。
いくら自分が「正しいこと」
を申したところで、相手が別の体験をしていたら、それは同じ「正しいこと」にはならないのです。
土砂災害に遭った方には、大雨は心配すべき対象であり、経験をしていない方には寝て過ごすべき対象なのです。
「大雨に備えなければ」
「何を言う、過剰反応だ」
自分が「正しいこと」を言うのを半分にすることは、相手の経験した「正しさこと」を認めることになるのです。
決して相手に迎合するとか、そういう意味合いではありません。
以上より、私は「正しいこと」を言うのは半分までにしておいた方が、最も正しく思えるのです。