ソーシャルメディアが無かったら、我々はゲーテを読むのだろうか



「ソーシャルメディアは時間泥棒だ」
そう言われて久しくなります。
インターネットが存在する前は
「TVは時間泥棒」
と言われたことも。

しかし、こういった誘惑が存在しないのならば、我々は空いた時間を文学書を読むことに充てるのでしょうか。
更に細かく言うと、ドイツの大文豪、ゲーテの著作を読むのでしょうか。


誘惑因子が無いことは、それは無条件にプラス因子が存在することを意味するものでは無いと思うのです。

ど田舎でスマホの充電が切れた時に
「はい、ゲーテの文庫本です。」
と渡されたとしても、読む展開は考えにくいからです。
たいがいは、周囲の景色を見たり、草花や川の流れに目をやるものです。

大木にもたれかかり、木漏れ日の中で読書...
それは、その人に読書の習慣があったり、周囲でゲーテの話題に触れることが多かったからなのでしょう。

別のケースで考えますと
「スイーツを食べに行こう」
と思ってお店に行ったものの、臨時休業していた。
「ならば、筋トレをしよう。」
という選択が出てくるのでしょうか?

結局、重たいことをするからには、ある程度以上の心理的動機が必要となってくるのです。

そうなると、時間泥棒とは常に存在し続けるものであって、それが紙面のタブロイド紙やTVからゲームやソーシャルメディアに置き換わっただけなのかもしれません。