困っていても、センスが無い人は助けを求めるな

極左新聞(朝日新聞)において『心の危機いち早くキャッチ』という記事を読みました。
児童および生徒の自殺が高止まりする中で、リスクを把握する取り組みを取材したものです。
この記事で印象に残ったのが
- 元気そうな中学生に自殺未遂歴があった
- 他の学生で、当人が悩んでいることを周囲は全く察知していなかった
という事例です。
こういったエピソードを、かつての自分に重ねながら読んだものです。
私は思春期に入る頃より、精神的な苦悩を抱えるようになりました。
後年に精神科医より「その当時より病気の状態と判断してよかろう。」と言われたものです。
しかしながら、当時は通院をしていませんでした。
また周囲からは「悩んでいる」とは思われていませんでした。
むしろ「ふざけている」「怠けている」と思われていたものです。
ただ、こうなったのは自業自得かもしれません。
いかんせん、社会とはそれほど温かくはないのです。
私は「悩んでいる」「困っている」と申さずに、ごまかして笑いにしていたのです。
体調がすこぶる悪いものなら「今からフルマラソンを完走できる。それも、世界新記録で。」と申してしまう。
食欲がないのなら「ダイエット中なのだ。トップモデルを目指している。」と申す有り様。
道化師もいいところ。
真の意味を理解されず、軽んじられるのは宿命と言わざるを得ません。
しかしながら、かと言って当時の私が正直に「困っている。助けて欲しい。」と申して、助けを得られたのでしょうか?
このことを考えているうちに、私はある考えを導きました。
「人は困っている人を助けるのではない。
その人が、助けたい人を助けるのだ。」
私のような特技が無く、能力もなく、コミュニケーションも苦手な学生を、助けたくなるのでしょうか?
愛嬌があり、甘え上手な学生であるならば周囲の人々も助けたくなることでしょう。
他の出来事ならば
- 階段を上る途中で、買い物用バッグからオレンジを落としてしまった美女。
- 階段を上る途中で、踏み外して転倒してしまった老婆。
この様を目撃した男性は、一体どちらを助けたくなるのでしょうか?
ことの重大性では後者が圧倒しています。
しかし、助けたくなる動機は前者が圧倒しています。
更には国際社会からの支援も「助けが必要か?」よりも「助けたいと思うか?」が軸になっていないでしょうか。
ある、キリスト教がメジャーではなく、住民の肌の色も透き通った色ではない地域があります。
そこでは大量虐殺が発生しているものの、注目をあつめておらず、支援も乏しい状態です。
他方、キリスト教圏であり、住民の肌の色が透き通っている地域での紛争には、被害者数がまだ少ないのですが(*被害者数の大小で比較できることはありませんが。)多くの注目および支援を集めています。
人種差別的観点もつきまといますが、後者の地域の方が、世界的にも知見や親しみがあるのでしょう。
ですから、私はどうしても
「人は困っている人を助けるのではない。
その人が、助けたい人を助けるのだ。」
と主張するのです。
この観点からすると、私には愛嬌やら、周囲の人々との親和性において致命的な欠点が多々あると言わざる負えません。
私には、そういったセンスを持ち合わせていないのです。
ですから、私に必要なのは、そういったセンスを身に着けるか、あるいは、そもそも助けを得られないことに覚悟を決めるか、なのです。
「いや、あなた。何を冷たい考え方を。」
と申されるのならば、こう問います。
「弱ったカラスがいます。
弱った猫がいます。
どちらも同じように助けたいと思いますか?
どちらも同じ命ですよ?」
差がつきますよね。
繰り返します。
私自身が、弱ったカラスと同類なのです。
このことを自覚し、なおかつ受け入れることをしなければならないのです。
私はずっと、助けを得るうんぬん以前の段階で失敗をしていたのです。