食欲ならば誰も疑わないのに...



「悪いけれど、食欲がないんだ。」
相手がこう申したのならば、たいがいの人は相手を気づかうと同時に、こう訪ねることでしょう。
「何なら食べられそう?」

この状況を
「いやいや、食欲が無いと申しているのですから、いかなる物も食べないと解釈するべきですよ。
食事の話は一切しないことにするべきですね。」
などと捉える人がいるのでしょうか?

食欲が無いと文字通りに解釈するのは誤りなのであり、食べることに対してハードルが高くなっている、と見るのが適切なのです。
このことには、多くの人が同意してくれることと思います。


しかし、他の分野となると、そうも行かないようです。
文字通りに近い解釈をされてしまうのです。

ソーシャルメディアにおいて、精神病を患って働けないと申す人が投稿すると
「どうして働けないのに、投稿ができるの?」
と、疑問やバッシングを投げかけられるそうです。

つまるところ
  • ネットに投稿をすることができる
  • 週3日で4時間の勤務ができる(あるいはフルタイム勤務)
は同等の意味合いを持つことができると解釈されるらしいのです。

これが、冒頭で申した食欲ならば
  • ヨーグルトなら少し食べられそう
  • フライドチキンを爆食できそう
は同等の食欲と定義されるべきなのでしょうか。

これは由々しき問題なのですが...
憤慨するのは得策ではなさそうです。
食欲減退ならば、誰しもが経験しているから理解されやすいのです。
対して精神病となると、そうも行きません。相手が経験したことのないことに対して、すぐに理解を得られるのでしょうか?

他のケースで考えてみます。
例えば来日したばかりのインドの方がいたとします。
日本の人が
「おはぎは美味しいです。」
と言っても
「それは、味噌汁に近いものですか?」
と返すかもしれません。食べた経験が無ければそうなるのはやむおえません。
「いえ、和菓子です。」
「塩味ですね?」
「いいえ、甘いです。」
「そうなると、ケーキのようですか?」
「いえ、クリームは使っていません。」
ここでインドの方を嘆いてはいけないのです。
経験の無い方がいたら、経験のある方がレベルを合わせるのです。

逆だってあることでしょう。
インドの方から
「ハジヤを食べたことがありますか?美味しいですよ。」
と質問されるかもしれません。
日本の方なら
「無いです。それは、カレーの一種ですか?」
と返すかもしれません。
食べた経験が無ければ、そうなることでしょう。
ちなみに、ハジヤはこんな感じ。


じゃがいもの天ぷら、と表現するのが近いようです。


食欲の減退ならば、多くの人から共感を得られます。それだけ広く経験されているからです。
そうではない精神病ならば、大切な相手であるならば丁寧に説明をするしか無いのです。

肝心なのは、相手に知識があるのかよりも、経験の無い事柄に対して理解をしてもらえるか否か。
そこにかかっているのだと思います。