地獄の続きを、また再び
楽園とは存在するのでしょうか。
まだ私がたどり着けていないだけなのでしょうか?
解釈は人の数だけあるのでしょうが、私は存在しないと定義します。
むしろ、その方が「安全」ではないのでしょうか。
私は違和感を感じることがあります。
移住、転職、新しい人間関係...
そういった事象が、人生の悩みを解決すると喧伝するのを見聞きするのですが、それは移った先が楽園であるかのように絵描かれているのです。
そういった事象が、人生の悩みを解決すると喧伝するのを見聞きするのですが、それは移った先が楽園であるかのように絵描かれているのです。
これは虚偽であるとしか思えないのです。
移住先の人々は、桁違いにお人好しなのでしょうか?
いつでも食べ物を持ってきてくれて、家事を手助けしてくれるのでしょうか?
村落の人々が親切であろうとも、家庭のことは自活しなければなりません。あまりに頼り切りでいると村八分にされることでしょう。これはイジメなどではなくて、単に愛想をつかされた状態です。
また、国境を越えると「エイリアン」とされて蔑視を受ける可能性も否めません。
更には露骨に足元を見てきたり、弱味につけ込む可能性も考えられます。
転職にしても、新しい職場は気を抜いて仕事を進められるのでしょうか?
お金を着服することが道理として通用するのでしょうか?
いや、やはり指定の時刻には就業を開始せねばならず、決められた手順を踏まねばなりません。
楽に利益を継続的に出せる仕事など、存在するのでしょうか?
やることをやらねば、話になりません。
新しい人間関係。
一見すると、劇的な変化を生み出しそうです。
一見すると、劇的な変化を生み出しそうです。
マンガの例えで恐縮ですが『ドラえもん』ののび太くんが転校したら、新しい学校でヒーローになれるのでしょうか?
いや、最終的に彼は劣等生として見下されて、イジメられるのがオチでしょう。
更に言うと、イジメとはターゲットにされる方が自発的にびびるからこそ成り立つ間抜けな現象です。自発的にびびる人間は、どこに行っても狙われます。
そうは言っても、進学や引越しを気にキャラを変えて変身した、という例もありましょうが、それらの根幹は本人の努力を抜きにして語れないエピソードではないでしょうか。
これらから考えるに、楽園とは存在するものではない。
どこへ行こうとも地獄は続く。
「なんと残酷な!」
そうです、残酷なのです。
ならば楽園を夢見ることを止めるのです。
地獄に打ち負かされぬためにも決起するのです。
「地獄の続きを、また再び」