善意とは無料ではない コストがかかっている




「善意とは無料ではない。コストが発生するものだ。」
そう考えさせられる出来事を目撃しました。

と申しましても、冒頭のイメージにありますような、ホームレスの支援を言及しているのではありません。
もっと簡単な、身近な善意です。

横一列に並んだ椅子があります。
そこに、女性A・女性B・女性C、の順に座る場面がありました。

私は近くにいたのですが、しばらくすると女性Bがソワソワし始めました。
「なんだろう!?」
と思いながら見ていたら、鼻血が出てきた模様。
「ティシュー持っているのかな?」
と思って見ていたら、女性Bが足元に置いた鞄の中にティシューが見えました。
「大丈夫そうかな。」
と思って、私は静観することに。

ですが、女性Bの隣に座っていた女性Aが
「どうされました?」
と聞いたのです。
「あっ、大丈夫です。ちょっと鼻血が出てしまい...」
と照れ笑いをしながら返答。
すると、女性Aがティシューを差し出すのと同じタイミングで、反対隣に座っていた女性Cも無言でティシューを女性Bに差し出したのです。

女性Cは、隣の女性Bがソワソワしていることに気がついていたのでしょうが、声をかける勇気を持てなかったのでしょう。
しかし、反対隣の女性Aが声をかけたことにより事情を把握し、助けに動いたのです。

私はこの出来事から、善意には勇気を出すというコストが必要であると、考えたいです。


あなたも私も、困った時に助けを求める権利はあります。
しかし、それに応える善意には、勇気と言うコストが発生していることを意識しなければならないのではないでしょうか。
したがって助けを得られなかったことを嘆くことは慎まなければならないと思います。

「誰も助けに来てくれなかったなぁ。」ではないのです。
それは「なんで、赤の他人が私にコストを支払ってくれないんだよ!」と、要求をしているのです。

読者の中には、筆者の考えを
「冷たい人ですなぁ。
あなたは余程の吝嗇家(りんしょくか。極端なケチのこと。)であることだろう。
勇気ぐらいのコストなら、さっさと出しなさい。」
と申すかもしれません。
その通りでしょう。私は吝嗇家でありましょう。

しかし、私だけではないことでしょう。


なぜ、この動画が成立するのでしょうか?
誰もが進んでコストを支払うのでしたら、このような番組は成立しません。
ですが、そうではないから動画が成り立っているのです。


私はこのようなシーンにおいて、コストを支払う人間でありたいです。
ですが何よりも、私が助けを必要としたときに周囲を嘆くことは慎むことができることを願っています。
なぜなら、善意とは無料ではないのです。その人にコストがかかっているからです。