人間は本当に自由の刑に処せられているのか?(1)


ジャン・ポール・サルトル


画像の人物は、スーパースターのサルトルです。
彼を「スーパースター」と表現すると、何とも軽々しく聞こえるかもしれませんが実際問題そうであり、これほどふさわしい表現は他に無いものと私は考えています。

何しろサルトルは20世紀の思想界を代表する人物で、非常に注目を集めたからです。 

今回は彼の思想の要約と、それに対する私の考えを小さなエッセイにして書いています。

まずはサルトルの思想を[私の歪んだ解釈による編集で]押さえておきましょう。
サルトルの思想は以下のようなものでです。
  • 神は存在しない。
  • 「人間とは**である!」という基準なんて無い。
  • そもそも人間がどうであるかなんて、決まっちゃいない。
  • 決まっていない→何のよりどころも無い→ウルトラ自由である。
  • よりどころ、基準は無いが、自己形成は自分で選択&行動をしてやれ。
  • ウルトラ自由な状態だから全部を自力で選択&行動するのは大変だ。
  • だけれど責任は全部自分で取れ。
  • この過酷さからして、人間は自由の刑に処せられていると言える。
以上がサルトルの思想の要約です。

ではサルトルの思想をふまえて、これから英国のロック歌手バンド、クイーンの I was born to love you を聞いてみましょう。



サルトル流に解釈をしたら、以下のような具合になるのではないでしょうか。

「フレディ!(*ボーカルの名前。)そんなことは無い!それは君の思い込みにすぎない。
いいかい、フレディ。運命と言う絶対的な物。神々しい事象。そういう類(たぐい)の物は一切存在しないんだよ。
だから、決して君はその人を愛するために生まれてきたわけではないんだ。」
という具合に、ニヒル(虚無的)な論理を述べることになるのでしょうか。

更に他のケースを想像してみます。
もしもサルトルが結婚式のゲストとして招待されていたら。

スチュアートとアマンダの結婚披露宴。
スチュアートがアマンダに向けて、I was born to love you 歌い始めた。
すると、ステーキを食べていたサルトルは、フォークとナイフを握った両手を高く掲げ、勢いよく立ち上がり、大声で叫び始めた(口から肉をボロボロと吐き散らかしながら)。

「スチュアート!何を言っているんだ!!
君はアマンダを愛するために生まれてきたのではない。君は他の女性を愛することだって可能なんだ。
そもそも、君がアマンダを愛するために生まれてきた、あるいは運命であるとか証明できるかい?証明できる物なんて、どこにも無いではないか。
君はニーナと結婚することだってできたことだろう。ヴィクトリアと結婚することだってできた。
しかし、君はアマンダと結婚することを自分の意志で選択した。誰かに強制されるわけでもなく、自己責任においてアマンダを選んだのだ。
よって、君はアマンダを愛するために生まれてきたわけではないのだ。
あくまで君がアマンダと結婚することを選択した結果でしかないのだ!」

実際のサルトルはこんな行動をしないでしょう。
なにぶん彼は常識の人だと言われているので突飛すぎる行動はしないはず。

しかし、心の中ではそう思ったことでしょう。
仮にしていたら式場は静まり返り、アマンダは大泣きし、そしてスチュアートは怒りを爆発させてサルトルに殴りかかる。
タブロイド紙には
「サルトル、お得意の哲学で結婚式をブチ壊す。今年だけで通算40件目。」
とでも報道されたかもしれません。

しかし、よくよく考えたらそうなのでしょう。
誰と結婚するのかは自分で考えて選択した結果のはずです。
誰かに強制されてしたり、占い師のお告げに渋々ながら従ってするものではないのだから。

その反対のケース、つまり全てのロマンスが運命づけられているとしたら、こんなことが言えるはずです。
  • 私たちの恋は運命なの。だから、この先に遠距離恋愛となったとしても破局はしないの。必ずゴールインするの。
  • この初恋は必ず成就するよ。 
  • 僕たちは結ばれる運命さ。だから僕が何をしても、ガールフレンドは僕を見捨てないよ。借金を作っても、浮気をしても、暴力をふるってもね。
いいや、そうではないことでしょう。
遠距離恋愛になった結果、破局に至るケースは割合と多いそうです。
初恋は実らないケースが多い。
相手の本性が出てきて、破局に至る例は少なくない。
よって、結婚と言う事象は運命によるものではない。
出会い、年齢、経済事情、価値観の共有...といったことを照らし合わせた結果として、双方が選び取った形の1つだと定義するのが適切ではないでしょうか。
破局に至ったロマンスも、そうなるように運命づけられていたわけではなく、双方が成就を選び取らなかった結果のはずです。
 あるロマンスが運命かどうかは、後からのこじつけと考えるのが賢明だと思います。 

(...全世界の婚約中ならびに新婚の皆さん、あなたたちの幸せ気分をブチ壊してしまったのならお詫びします。
しかしですね、お2人の絆を強くしていけるかどうかは、お2人しだい。
運命に左右されて脆くなる代物ではないのですよ!)

さて、運命が存在しないことを結婚を例にして考えてきました。
この例から考えるに、運命が存在しないことに私は共感でき、サルトルを支持します。
しかし「自由の刑に処せられている」というのは本当なのでしょうか?
つまり、処せられているというネガティブな表現は適当なのだろうか?と。

次号に続きます。