人間は本当に自由の刑に処せられているのか?(2)


ジャン・ポール・サルトル

その1から続く。


確かに自由恋愛の時代において、誰と結婚するかを選択することは大きな労力を要するはずです。
なにしろ自由なわけですから自らの責任において選択(=数ある人間から誰を伴侶とするのか。)と実践(=結婚生活を続ける。)をせねばならないのです。

それゆえに不安を抱えて
「本当にこの人でいいのか?他にいい人がいる可能性はないのだろうか?」
「関係の発展を急ぎすぎていないかな。もう少し時間をかけた方がいいかもしれない。」
「あまりにも生活スタイルが違いすぎるが、一緒にやっていけるのだろうか?」
といった具合に精神をすり減らすことは多々あると思います。
なるほど、自由とは刑のように重苦しく感じられることでありましょう。


ですが、これほどまでに重苦しい思いをすることは少ないのではないでしょうか。
つまり、自由な状況下で自らの責任において判断を下す苦労を日常生活に感じるのでしょうか?

例えば食料品の買い物。
「私が何を買うべきか。それは、あらかじめ何がしかによって決められているわけでは無い。私が自由に選んでいい。」
というのは当然のことです。
しかし、そのことを強く意識して買い物をするのでしょうか?

例えば、こんな具合に...

商品を目の前にして
「私の目の前にはサンドイッチとスパゲティがある。今夜どちらを食べるのか、自由に選べる。
なぜなら、私は自由に選ぶことができるから!
しかし、その選択は自己責任でなくてはならない。店員が何をアドバイスしようが、最終判断は私が下さねばならない。

そして、下した判断がハズレであっても私が責任を負わねばならない。
さて、サンドイッチとパスタ。私が今夜食べるのにより良いのはどちらであろうか?」
と真剣に考えながら、苦悶に満ちた顔つきで食料を見つめている人などそうそういるものではないと思います。
もしいたら、周囲の人々がざわつくかと...

たいてい食料を買う流れは以下のように行われるはずです。

  • 値段を見て決める。
  • ここ数日、何を食べてたかを考えてマンネリを避けて買う。
  • どれがおいしそうに見てるかで決める。
などなど。
このように、フィーリングで決めるケースが圧倒的多数であることでしょう。

そしてこの場合、自由とは刑のような重苦しさを伴いません。
買い物を終えた時に、彼(彼女)らに
「買い物は大変でしたか?」
と聞いても
「全くもって、そんなことは無い。何を言っているんです?」
と返答されるものでしょう。
そして、聞いてきた側を奇妙な目つきでジロジロ見るものかと。

これは当然と言えば当然。夕飯の買い物に真剣に悩むことなど稀ですから。


しかしながら、夕飯の買い物のみならず、進路選択といった事柄に対してすら深く考えないケースもあるかもしれません。
例えば
「どうして今の会社で働いているかって?他の会社で採用されなかったから。
そもそも、どうしてもやりたい仕事なんて私には無い。生活が安定すればそれで良い。」
という態度の人々だっています。

しかし、サルトルはそういう態度を批判しているのです。
「未来に向かって自分の人生を積極的に企てて、そして投げかけよ!
このことを投企(とうき)と言う。」
つまり、ボーっと生きるのではなく、未来に向かって自分の人生を積極的に作っていくべし!と言っているのです。
(ここから、つまらないダジャレを言うと『サルトルに叱られる!』というTV番組でも製作できるかも?)

では、このような立場に立って夕飯を買うことを想定してみます。

ある若い女性が、夕飯にサンドイッチを食べようかスパゲッティ食べようか考えている。
彼女は投企(とうき)する生き方を選んでいる。
具体的どんなことをしているのかと言うと、普段食べる物に気を使い、その結果としてモデルのように美しいボディーを得ようとしている。
「私はどちらを選ぶこともできる。
しかし、美容を考えた場合どちらが良い選択で、どちらが劣る選択になるのか。よく考えて判断しよう。」
こんな具合に夕飯を選ぶことでしょう。
そして彼女は、夕飯のみならず、あらゆる食事を熟慮してから選ぶことでありましょう。
の結果として彼女はモデルのように美しいボディーをてに入れられることでしょう。

しかし、こうも言うことでしょう。
「毎日、何が美容に良いか悪いかを意識して食事をするのは大変だ。ある種の刑に処せられている様だ。」
と。

人間には運命が無い。
なので、彼女が美しくあらねばならない理由は無い。
別段、醜くても良いのです。

しかしながら、何を選んでも良い自由な状況下においてモデルのようになることを自ら投企(とうき)したのです。
なるほど、立派な生き様です。


だが!
食べたいものを場当たり的に食べて、肥満になりはしたが幸福を感じて生きる道だって良いのです。
積極的に選んだわけではないが、当人がそれで満足感を得ていたら、それでも良いと言えないのでしょうか。


少し前の、職業選択の話に戻ります。
「とりあえず採用された会社で働いているのだ。そのことに満足はしていないが、それでいい。」
こう考えている人にとり、人間に対して課せられる自由の重積とは通り抜けていくだけであり、重苦しさを感じられません。

自由が、あたかも刑であるかのように重苦しく感じるのは、積極的に主体的な生き方を選び取った者、投企(とうき)をした者において見られることなのだ。
その点からするに、サルトルはそれを実行したのだ。

そして、全ての人間が投企(とうき)をするという積極的な態度でいる必要などありません。
自由を刑のように重苦しくさせねばならないわけではないのです。
消極的に生きて、自由を軽々しい物にしても悪いわけではないはず。
そして、そのように生きる者にとっては、自由とは刑と呼ぶには値しないはずです。

刑と表現するのは、あくまでサルトルが主体的な生き方を積極的に実践し、その上で経験した苦しみを踏まえて、ペシミスティックに提唱した命題であると私には思えます。


こういうわけで、積極的に人生を問うて生きて行く者にとって自由は過酷さを伴うが、消極的な場合はそうではない、と私は付け加えたい。