人生に意味など存在してはならない




「私の人生とは、いったい何なのだろうか?」
辛いとき、苦しいときに、そう自問する人はいることでしょう。
逆境の中において自らが生きる糧を見出したいと願うことは、誰しも容易に想像できることと思います。

しかし、筆者は人生に意味があることを望みません。
「人生とは、ただそこに事実が存在するだけのこと。」
だと考えています。
そして、これが真であることを願っています。


もしも、あなたが外出を予定している際に、悪天候となったとします。
あなたはそれを「意味がある。」と解釈するのでしょうか。
そう思う人もいることでしょうが、多くの人は日常の天候を意味付けすることは稀でしょう。
「あーあ。」
とか
「やっかいだ。」
という感想で済ませます。

しかし、意味があると考える人は、こういった大なり小なりのイベントに意味付けをすることは、決して奇異なことではありません。
「この悪天候は、外出を控えることを警告しているのではないか。」
「運命は、私に試練をお与えになった。」
等々、様々な解釈を与えることでしょう。

はたまた、あなたがロケット工学者だとします。
打ち上げに失敗したら
「神様は成功をお望みではないようだ。」
と解釈するのでしょうか。

人生ほど意味付けを欲するものはありません。
どちらへ進もうとも、その行動には何ら裏打ちも保証もありません。
「こちらへ進むことは正しいんだ。」
本当にそうか?未来に起こる結果を見たのか?そうでないのに、どうしてそう言える?
「この人との結婚は成功する。」
ずっと優しいのか?離婚することはゼロなのか?浮気しないことが決定しているのか?

道標も無く、荒涼とした平野を歩くことほど、強い孤独に襲われるものはありません。

その恐怖から人々はすがる。
「私の人生の意味は?」
占いにすがる?
大作家のエッセイにヒントを求める?
あるカリスマの模倣をする?
そうして安心を得たい心理を否定する気持ちはありません。

ただ、悪天候にしろ、ロケットの打ち上げ失敗にしろ、それは単なる事実でしかないはずです。
しかるべきは
「悪天候なので余裕をもって行動する必要がある。」
「打ち上げ失敗とは、我々がまだ成功する方法を見いだせていないことが暴露されたのだ。」
等々、運命論を持ち出さないことです。
そうでないと、我々は自らを囚人と化してしまいます。

「この天気では、出歩かない方が良いんだ。」
そう言って、自らの人生にフェンスを自分で築き上げます。
「ロケットは成功しない運命なのだ。」
そう言って、更なるフェンスを自分で築き上げます。

いや、そうであっては欲しくない。
意味や宿命など私は欲しない。

私の失敗とは、私の困難とは
私の考察不足であるシグナルなのだ。
私の困苦とは、私の絶望とは
私の技術不足を示すシグナルなのだ。
肝要なのは、私がこれらの事実にいかに対峙するのかなのだ。

そうでなければ、達成できることすら逃す恐れがあります。

私は人生に意味など存在して欲しくありません。
目の前の事実に対して、いかに対処していくのかを大切にして行きたいです。