辛い思いをしてまで生きる価値はあるのか
はじめに
本稿は自殺を推奨するものではありません。
単刀直入に、タイトルに対する結論を申します。
「ありません。」
生きとし生けるもの、誰しもが「良く生きたい」と願うことでしょう。
「おいしい果物にありつきたくない」
「猛獣に襲われたい」
「病気になりたい」
このような、ネガティブな願いをする人はいるのでしょうか?
常識的に見れば、全てその反対を願うのが道理です。
しかしながら、その願いが叶わない状況に置かれることは無きにしも非ずです。
それでも生きなければなりません。
残酷なことに、生物はいかなる状況でも生きることを継続することを強いられます。
そもそもDNAが生きることを願う設定になっているため、天地がひっくり返っても抗うことができないのです。
そういった時に
「明日は違う日になる」
とか
「きっと大丈夫」
とか、根拠不明のやたらと明るい言葉を投げかけられ...ではなくて、投げつけられます。
これらは、悪運を襲ったのが他人であるがために気軽に投げつけることのできる言葉です。
何が何でも生きることを強いられるのは、絶望と苦痛の蓄積に他ならないと思うのは筆者だけでしょうか?
しかしながら、自殺を推奨しているわけではありません。
何のことは無い、そういう生きる価値の無い状況に対して叱咤激励ではなくて、休むこと、逃げることを推奨したいのです。
理屈ではわかっても、罪悪感や周囲の目を気にしたりと、閉塞感に襲われるかと思います。
しかし、そういったことを温かく認める文化を築かれることを願いたいのです。
もしも
「これから15年、非常につらい日々が始まる。
だけれど、乗り切れば報われるよ。」
と言われて、前向きになれますか?
こういう人生は生きる価値がありますか?
仮に耐え抜いても、ボロボロになった状態を喜べますか?受け入れられますか?
そこに価値を見出せますか?
そこに価値を見出せますか?
おそらく、ノーでありましょう。
ならば、耐え抜くのを選ぶのではなく逃避するのです。
それで心身を守れるのならば上等ではありませんか。