知事殿、誰が「ともに生きる」を願っているのですか?




神奈川県では「ともに生きる社会かながわ憲章」を掲げています。具体的な内容は
  • 私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします
  • 私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します
  • 私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します
  • 私たちは、この憲章の実現に向けて、県民総ぐるみで取り組みます
と要約されています。
更に詳しい内容はリンク先である神奈川県のサイトをご覧ください。

とても素晴らしいものです。
神奈川県は、これを2016年に制定しました。
しかし、よくよく考えてみると、国連で1948年に採択された「国際人権章典」で既に謳われた内容と重なる点が多いです。

しかし、それでも神奈川県が憲章を制定したのは、2016年に神奈川県相模原市の障がい者施設で入所者の19人が刺殺、入所者と職員の26人が重軽傷を負った痛ましい事件が発生したためです。

事件の犯人は「障がい者なんて、いなくなればいい」と考えた末の凶行でした。

以来、神奈川県では「ともに生きる」を掲げています。
筆者は神奈川県に住んでいるため、あらゆる場でこの憲章のポスター等を見かけます。

しかしながら、あらゆる神奈川県民がそれを望んでいるのか疑問を持ってきました。
端的に言いますと「県民は『ともに生きる』を本音では嫌がっていないだろうか?」と。


「ともに生きる」に、神奈川県は様々な意味を包含していると解釈できます。
  • 身体障碍者と健常者
  • 男性と女性
  • 子どもとシニア世代
  • ルーツが日本だけの人と外国にもつながる人
などなど、枚挙にいとまがありません。

これには
  • ひきこもりと労働者
も当てはまると思うのですが、互いに「ともに生きたくない」と考えているとしか思えない経験をしました。

私が神奈川県内で開かれている、ひきこもり向けグループに参加していた時のことです。
このグループの参加者さんで、不登校やひきこもり期間を経て就職をした方が
「職場の上司が、このグループに来て説教をしたいと申している。」
と言うのでした。
この参加者さんが、職場の方にグループのことを話した結果、そう言ってきたそうです。
その場にいた参加者の人々は
「その上司は誤解と偏見に満ちている。」
「そういう奴は断固拒否だ。」
と猛反発をしていました。
私も反感を感じましたが、今ではそれを誤りだと思っています。

この一件からほどなく、私は匿名掲示板において珍奇な投稿実験を行いました。
「ひきこもりは怠けだ。根性が足りない。しばいてやればいい。」
と投稿しました。
私としては、先ほど言及した上司のような人物が来て、同調の応答を始めたところを、私は論破してやろうかと思っていたのですが...
食いついてきたのは想定とは異なる人物でした。

「おまえ、ひきこもりのことをわかっていないな。
ひきこもりには、精心疾患を患って苦しんでいる人が多くいるんだぞ。知らなかっただろう?バカたれ!」
ひきこもり当事者が応答して来たのです。

私は
「それ、全部知っているよ。」
と返したのですが、当事者の方は攻撃を続けて来ます。
私は種明かしをしようかと思ったのですが、あまりにも不快な攻撃をされてしまい、種明かしをせずにやりとりから退散しました。


これら2つの体験を整理すると、以下の関係で思考がなされているのではないでしょうか。

我々 ←  → 奴ら


ひきこもり向けグループの参加者さんは、例の上司を
「奴ら(の1人)」という認識でいたと思います。

また、匿名掲示板で応答してきた人にしても、誤認してもしょうがないですが、私のことを
「奴ら(の1人)」という認識でいたと思います。

これは、逆の立場からしても同じ構図で考えていることでしょう。

我々(上司)← →奴ら(ひきこもり)


これは、現代のソーシャルメディアにおいて、もまま見られることです。

私は個人的特性上、精神疾患の話題に触れることが多くあります。
インフルエンシャル(影響力のある)精神病アカウントの持ち主が
「通院の際に、街中で***と言うのが聞こえた。傷ついた。」
と投稿すると、同じく闘病する方々より
「その発言者はバカだ。」
「無知すぎる。」
「そいつ自身が病になったら、どう言うのだろうか?」
と、非難が殺到します。
これもやはり

我々(精神病患者)← →奴ら(健常者)

という、二項対立でとらえられています。


つまり、意見を異にしている、視座が共通していない相手とは「ともに生きる」相手ではなく、互いに大きな溝を挟んで対峙したまま平行が続く、永久にクロスしない相手であるのです。

となると「奴ら」との間には大きな溝があって分離できていることは安全地帯の設定であり、そこを行政が「ともに生きる」などと申して橋をかけようものなら
「奴らが侵略してくる!」
と、互いが互いを非難することになると予想されます。
ゆえに、そもそも「ともに生きる」という架け橋は望まれているのでしょうか?

ネット上の例は神奈川県とは限りませんが、さりとて神奈川県が例外とも思えません。


ただ、私は1つ心がけようと反省していることがあります。
例の「説教をしたい。」と言い出した上司さんですが、会って話す機会を持つべきだった、と。

反発せずに
「その人は、どういう人生であったのだろうか?」
「ひきもりの実態を、どれくらい把握できているのだろうか?」
「当事者として、伝えた方が良いことを整理してみよう。」
などなど、上司を「奴ら」という二項対立で思考しないことでした。

相手を「我々」に含めなくとも、せめて

我々 → ← ○○さん

という思考構図を持つことが優先されるのではないだろうか。