ひきこもりを「無職」と言わない方が良い



「ひきこもり?無職なんだろ?就職先を探してやればいいんだ。」
こう助言を言う人がいたら、私は不合格な助言だと思います。

「おお、ひきこもりだからブランクがあるのか。ハードルの低い企業や職種に絞って就職先を探さないとね。」
こう付け加えても、私は不合格な助言だと思います。

ここに例示した助言には、ある考えが決定的に欠落しています。だから問題なのです。


ところで無職の人って、どのような人がいるのでしょうか。
私は以下の三種類にわけられると思っています。


  1. 長期の病気療養のため、職に就いていない。
  2. ヤンキーであり、学校は教員と衝突して退学、職場は上司とケンカして退職した。
  3. ひきこもりで家にこもっていて、職に就いていない。


1つ目については、説明不要でしょう。この人たちは病気から回復すれば、すぐに再就職すると思われます。

2つ目と3つ目は、定職に就き、かつ長続きするのは困難に思えます。
ですが、両者をひとくくりにはできません。両者の気質は完全に真逆です。


ここで仮定の話をします。
お菓子とジュースを用意して、就労に対する本音を語る会を開催したとします。

ヤンキーだけを集めて開催すると、こうなるのでは。
大皿に盛られたクッキーは、早い者勝ちと言わんばかりに争奪戦。
「おい、おまえ食いすぎだぞ。」
「うるせえ、制限なんて無いだろ。」

大型ペットボトルのジュースも、これまた争奪戦。
「おまえ、ラッパ飲みすんな。紙コップに注げよ。」
「は?このジュース、飲みたいの俺だけじゃねえ?」

こんな具合に、大騒ぎになると思います。

帰り道は
「おい、髪を赤く染めてた女の子いただろ。LINE交換しだぞ。」
「お、やるな。デートに誘うんか?」
と、わいわい言うのでは。


今度は、ひきこもりだけを集めて開催すると、こうなるのでは。

大皿に盛られたクッキーは、まるで手が延びない。
味が悪いわけではない。むしろ、美味しい。
お腹がすいていないわけではない。むしろ、空腹。
「参加者の皆さん、遠慮しないでください。」
と主催者が言っても
「はい。お気づかいなく。」
と遠慮してしまう。

大型ペットボトルのジュースも、これまた手が延びない。
「お好みのジュースではなかったですか?」
と主催者が問うと
「いえ、大好きです。」
「なら、紙コップに注ぎますよ。」
と、各自の紙コップに注いで初めて、ゴクゴク飲む。
それも、とても美味しそうに。

帰り道は
「・・・・・。」
と無言。
しかし、脳内では
「もっと気の利いた相槌を打てば良かったかな?勉強不足で、世の中の基礎知識が足りなかったかな?」
と、各自で一人反省会。


ひきこもりの多くの人は、対人関係を非常に苦手としています。

大皿に盛られたクッキーを前にしたら
「とても美味しそうだ!食べたいな!
でも食べ過ぎると、自己中心的だと思われないかな?」
という連想が出てきてしてしまい、行動にブレーキがかかる。

気軽な会話をするにしても
「相手の気持ちを上手く受け止められているかな?知らない間に失礼なことを言っていかな?」
と計算する癖がでてきて、まるで会話を楽しめない。

多くの人は、こういった症状?が出てくるようです。

こうなると、社会参加をせずに家にいることを選ぶのは自然な流れだと思います。


就労して自立することは何よりも大切です。
親はいつまでも生きていません。きょうだいも、結婚したら各々の子供(甥っ子や姪っ子)の方が大切になります。
福祉制度だって、頼らずに済むにこしたことはありません。

むしろ収入を得て、将来の不安を無くし、気兼ねなく物を買える生活の方が心地良いものです。

しかしながら、対人関係において症状?が出てくる。なおかつ、その症状?の克服ができなくて困っている。
この最大にして根本的な原因を解決しないと、いつまでも生きることに困難さが付きまといます。


ですから、私はひきこもりを「無職」と呼ばない方が良いと思います。
ただ単に無職と呼ぶと、就労支援だけが連想されてしまうからです。

ひきこもりの解決には、就労の支援と共に内面に関する問題の支援も必要です。