ハーフ(ミックス)である劣等感を植え付けられて



「ハーフです」あるいは現代ですと「ミックスです」、時代錯誤で差別的なニュアンスを含みますが「混血です」とも言いましょうか。
これらの表現には、無意識にコンプレックスが付きまとっているかのように思えてならないのです。

しかし、よくよく考えますとそれは単に親が国際結婚であるだけのこと。
そして、そのことにより何か発生することがあるのでしょうか?
例えば足が速くなる、あるいは反対に足が遅くなる。

いやしかし、それは個人差によるものなのであって、民族性によるものではないはず。
ならば、日本人とシンガポール人の間に生まれた人物を集めて
「足が速い?それとも遅い?」
と聞いて、明らかに傾向性でも出るのでしょうか?

そのような調査結果があるのか、私は存じませんが傾向性なんぞ見いだせないと思います。
となると、ハーフであることに他の人間と違うことが見いだせるとは言い難いのだと言えましょう。
生物学的には。


しかしながら、社会的には「違う」ということが強く意識されると思うのです。
それの例は
「英語を話せる?」
「ご両親の出会いは?」
「外人なんだね」
などの発言に出て来ますが、これらの言葉を受ける側がどう意識しているのかも重要なのかもしれません。

自分が周囲とは違うことは紛れもない事実であり、この先も変えようがないことです。
しかしながら、そのことを劣等感として自らが保有し続ける行為をしていないだろうか、と。

ゆえに劣等感を拒否し、自らのアイデンティティーを再構築することが重要となってくる。
これが私の考えに大きな影響を与えています。

最低限でも、自らに劣等感を与えるデタラメの理論の呪縛から抜け出さなければならないのです。

最初は周囲から植え付けられた劣等感であったものの、いつの間にか自らの手で保持するようになっていないだろうか...?