未来に興味が無なければ、過去にも興味が無い。
未来を語ることは危険であり、過去を語ることも危険である。
そう思えてならないです。
「1年後、あなたはどうなっていますか?」
「来年、あなたはどうなっていますか?」
こういった質問をすると、変な回答が出てくるのです。
「お金持ちになっていて、部屋がスッキリ整理されていて、IT機器を上手につかいこなせていて・・・。」
という、夢のような回答が出てきてしまうから。
いや待て。
どうやってお金持ちになっているの?
部屋の掃除をやるの?
IT機器のトリセツ(取り扱い説明書)を読むの?
突っ込みたい箇所が多々と出てきてしまう。
どうやら「1年後の自分」とは、驚くほど蓄財の才があり、驚くほど生産的であり、驚くほど苦手を克服しているらしい。
ならば問いたい。「現在の自分」は「1年前の自分」より、何らかの進歩や上達をしているのか。
たいていの人は、無い。
他方で、もしも進歩している面があるのならば、その人はみっちりと何がしかをやる他に無い環境に居たのでしょう。
例えば学生ならば、部活で鬼監督の下、地獄のような練習をしてきた人だろう。
例えば勤め人ならば、上司の監督の元、金属加工の研修をしてきた人だろう。
例えばダンサーならば、連日のように集まって自主練習を重ねてきた人だろう。
しかし、それでも進歩の具合は、当初に思い絵画いていたものよりも低いものでは。
どうやら脳とは
「何もしなくても未来に変化が起きる。」
だとか
「少しやれば大きなインパクトを得られる。」
といった、過度に楽観的なことを妄想してしまうらしい。
かく言う私の脳もそうだ。
自分が世の平均を上回る何かを持っているのならば、飛躍的な結果を出せるだろう。
運動神経が、記憶力が、人脈が、などなど。恵まれた才能や条件があるならともかく、そうでない人が、どうやって高度のパフォーマンスを出せるでしょうか?
エンタメとして、笑い話として、慰めとして。未来を語るのは面白いし癒しになろう。
しかし、予想図として語るには最悪すぎる。
ならば反対に過去を語るべきか?
これも疑問です。
「昔はスポーツマンだった。」と言われているが、目の前にいるのは中年太りした男性。
「高校生の時は地味だった。」と語るが、目の前にいる女性はオシャレで綺麗。
こういった例は多く見聞きします。
つまり過去に何かをしていた/反対に、していなかった、という効力は永劫に続くものでは無いらしい。
したがって問われているのは、今ここに居る自分と言う操作が唯一可能な存在を、どう扱うのか。
それがキーなのだと思う。
お茶を飲むときに、お酒を飲むときに。
未来な話や過去の話をするのは楽しい。会話に花が咲く。
でも、それだけでは何も変わらない。
現在を操作しない限りは。
それを行わない限り、自分は変わらないのです。