自分のことを日本人だと言っていいのか分からないけれど、私は日本人って答えたい。でも、周りの人はそう思ってくれない



嵐 莉菜(あらし りな)さん
モデル、俳優、タレント。
(画像引用元:映画.com


私は最近、嵐莉菜さんを知りました。
7年前から芸能活動をされており、ファッション誌の専属モデルにも抜擢されている方です。
(それを考えると、私がいかに流行を知らずにいるかが露呈してます...)

私の流行オンチはともあれ。
嵐さんは東京都生まれ、埼玉県育ちです。(情報引用元:Vivi

彼女は、様々な民族の血を引いています。
父はイラン、イラク、ロシアの血を引く人物。
母は日本とドイツの血を引く人物。
したがいまして、嵐さんは5つの民族の血を引いているわけです。

そんな彼女が、葛藤を抱えていることがうかがえます。
嵐さんは2022年に、映画で初主演を果たしたのですが、オーディションの際に監督の川和田氏(日英のミックス)との対面で、以下のように語っています。


川和田監督が嵐と対面した際、「自分は何人だと思いますか?」と問いかけたところ、

「自分のことを日本人だと言っていいのか分からないけれど、私は日本人って答えたい。でも、周りの人はそう思ってくれない」

と、自らもこれまでに感じてきた葛藤を吐露したことが、抜擢の決め手になったという。

(以上、映画.comからの引用です。)


繰り返しますが、嵐さんは東京都で生まれ埼玉県で育ちました。
そして、13歳頃から国内の雑誌やTVに出演して芸能活動をしています。
これらから、日本社会で活躍する一員であることは疑いようがありません。

しかしながら、日本以外の血を引いている点が、彼女に大きな問いを投げかけさせているのです。


私は、この悩みを抱かせる要因を Nation-state という近代の発明にあると考えています。
この英単語は日本語だと「民族国家」ないし「国民国家」と訳されます。

いきなりスケールの大きいことを言い出したと思います?
しかし、これは「**人とは何か?」という考え方について、現在でも影響を与えていると要因だと思えてなりません。


この用語が持つ国家観は、おおよそ
「国民は同質である」
という思考に支えられたものです。

それを実現するためには、学校教育においては
  • 標準語の制定と普及
  • 全国で画一した学校教育
を実施し、国内の統一性を持つことが求められます。

その成果として  
国内の東西南北のどこに行っても、国民は同じ言葉を話す。
辺鄙な場所に行っても
「その伝統文化は知らない。いかんせん、ここいらは首都からの影響を歴史的に受けていないんだ。」
などと申す人物を廃絶させて
「それを知っている。学校教育で習った。」
と申せる人物を産出する。
  といったことが期待されます。

そうして、国境線の内側では、どこであろうと
「私たちは一緒だ」
と感じせることが目標となります。

近代以降において、世界中の多くの国々が、この世界観に基づいて政治が進められてきました。
更なる詳細は、分厚い本が数えきれないほど出版されていますので、それらに譲ります。


しかしながら、歴史や文化とは、地域ごとに雑多な出来事の積み重ねによって形成されたてきたものです。

東に行けば、隣国A国の影響が見られる。西に行けば、隣国のB国の影響が見られる。

そのようなことはままあるのであり
「それを均質であるべきだ」
とのスローガンのもとに、人為的に均そうとしているのです。

そのような、均質をスローガンとされる環境において、異なる民族の血を引く人物。
つまり
「均質である要素を持ち合わせていない私」
とは、悩みを引き起こさせることは想像できなくありません。

ゆえに私は
「我々、日本人は...」
というセリフを苦手とします。

そこに悪意などは一切感じられないのですが、私は
「その範疇に、私は含まれて良いのだろうか?」
と心の中で自問してしまうのです。
最も、そこで面と向かって相手に問うても有益とは思えないので、私は毎度のごとく黙って聞き流していますが。

なお、私が同様な表現をしたいときは、たいてい
「日本の人」
という言い方をしています。
日本に住む人の全員、というニュアンスに近いと思うからです。


しかしながら、国民の均質性と言う現実離れした面を持つ思想潮流は、早々には崩れないことでしょう。

そこで私が提案したいのは
「日本人か否かに自信は持てなくとも、**市民であることは疑いようはないですよね?そこで暮らしているのですから。」
という考え方です。

国家単位ではなく、自治体単位でアイデンティティーを語ることです。

おそらく嵐さんは、スポーツチームは地元の選手たちを応援していることでしょう。
地元の市(あるいは町)が国際的なイベントの会場に選ばれたら、嬉しいことでしょう。
それらに対して
「私が応援していいのかわからない」
などと疑う要素があるのでしょうか?

これは私個人の感覚の話になりますが、自治体レベルでアイデンティティーを語ることは、ハードルを下げると思えます。

それでも、地元には
「おい、ガイジン!」
と呼ぶ人物がいるって?

そういう人物は、たいがいが、あなたとは全く親しくしていない人物のはずです。

もしも、あなたがミックスではなかったら、そういう人物からは
「おい、薄毛!」
「おい、チビ!」
と呼ばれていたかもしれません。

何でもいいから、特徴ある部分を嘲笑したいのです。
そして奴らは、そういう面を見つけるのが驚異的なほど卓越している。
それは、あなたに対してだけではない。誰に対してでも。


均質な国民の一人
そのような理想を背負う必要があるのでしょうか?

私は、その必要性は無いと考えています。

そして、国家レベルでのアイデンティティーを申し上げにくいのでしたら、ローカルレベルでアイデンティティーを語ってはいかがでしょうか。