そうかな?「いいねなんて、いらない。」ふかわりょうさんのコラム
タレントの、ふかわりょうさん。
(画像引用元:ザテレビジョン)
もっとも、私はこのコラムを知ったのは最近のこと。
私はテレビを見なければ、ラジオも聞かない、ネットも必要最小限の利用。
世界から切り離された生活をしています。
「今まで洞窟で暮らしていたの?」
と、揶揄されても仕方がない状態です・・・。
ともあれ、ふかわさんのコラムを読んでみましょう。
以下は東京新聞2017年8月19日付からの引用となります。
カメラを置いていこうと思ったのは、それがあると撮ることに気を取られて、旅を楽しめなくなっていることに気付いたから。その瞬間、目の前にあるものを、レンズ越しではなく体全体で感じたい。残せる安心感よりも、残せない緊張感。今を油断したくない。実際、旅の途中にカメラを持って来ればよかったと後悔もしたけれど、撮影しながらの旅よりも深く刻まれたと思います。
「インスタ映え」。もはや日常さえも撮影ベースで動く人が増えました。「映える」かどうか大きな基準となった今、日常を切り取る行為は、後々振り返るためというより、「いいね」を獲得するため。ナイトプールや潮風のないビーチ。撮影のためだけに入るレコード店。日常なのか非日常なのか、「映える」ところへ東西奔走。今を共有したい、報告したいというよりも、「いいね」が欲しい。
それはきっと、不安の裏返し。自分の人生が幸せだと実感したい。みんなに幸せだと言われたい。そんなことは周囲が決めることではないのに。彼女たちは、インスタ映えする棺桶を選ぶのでしょうか。
それぞれの人生ですから、「いいね」と言われる人生を否定はしません。でも、私は、いらない。人の「いいね」よりも、自分の「いいね」がひとつあればいい。そもそも、人生にいいも悪いもない。こんな私は、人生をこじらせているのでしょうか。
引用は以上となります。
とても興味深い考察だと思います。
そして、私なりの意見も考えてみました。
ふかわさんは、この旅行で共有したいことは無かったのでしょうか?
共有とは、ソーシャルメディアに投稿する事だけを指すのではありません。
例えば肉親や恋人、あるいは親しい友人。そういった方々に対して
「海がキレイだったよ。」
「お花が満開だったよ。」
と、感動を伝えたい、聞いてもらいたいのではないでしょうか?
また、仮にカメラを持って行ったのならば、写真を見せながら
「こういう場所なんだ♪」
と語りたいのでは。
もともと、人間とは共感を求める性質があると思います。
幼稚園や保育園の前を通ると、出迎えの親に駆け寄り
「今日は劇の練習をしたよ。」
「かけっこで勝ったよ。」
と、嬉々として語る幼子を見ます。
こういう性質は、成長してもさほど変わらないと思います。
中高生になると
「昨日、食べに行ったラーメン屋が美味しくて・・・」
「あの映画、面白かったよ。」
と、友人相手に興奮して語る様子を見かけます。
大人になると
「あいつは、ノロマで・・・」
「あの企業は倒産するらしい。」
と、やはり共有ないし共感を求めています。
よくよく考えると、
何かの練習をした。
ラーメン屋が美味しい。
誰かがノロマ。
だなんて、連絡する必要性はありません。
しかしながら、それらの話題に対して好意的な反応が欲しいはず。
決して否定的な反応を欲しいとは思っていないことでしょう。
例えば
「練習したから何なのだ?本番までに完成させられるのかが大事だろう?」
「そのラーメン屋が美味しいと、私は来店しなければならないのか?」
「その人がノロマであることは、私に何の関係があるのか?」
と返されたら、嬉しくは無いことでしょう。
やはり、共感を求めるのは人間の本質であり、その象徴たる「いいね」を求めるのも自然な現象だと思います。
ふかわさんが指摘する通り、自分の「いいね」が最も大切だと思いますが、誰かからの「いいね」も、決して侮(あなど)ることができない重要なものだと思います。
では、いいねを求める風潮の問題は何なのか。
それは他人軸が判断の中心となっていることです。
ふかわさんのコラムは、この問題点を突いています。
ふかわさんは対処方法として、そもそも「いいね!は、不要ではないか。」という提案を出しています
これについて、私は別の見方を提案してみたいです。
自分軸が基本とすべきなのは、私とふかわさんで共通しますが、私は他人からの「いいね」もある程度は重要だと考えています。
ですが、与えられた「いいね」に対する主体的な解釈ないし意味付けを行うことを欠いてはなりません。
ややもすると、与えられた「いいね」に対する評価基準が質より量になっていないでしょうか?
例えばソーシャルメディアで100のいいね、が付いたとします。
ですが、その内90は見ず知らずの人からの「なんとなく」「暇だったから」で付けられた低質のいいねだったら?
もはや、それらは「いいね」よりも「どうでもいいね」になります。
それよりかは、対面で親しい人から心のこもった好反響を数件もらった方が良いのではないでしょうか?
ここでネットを離れてリアルの世界を考えてみます。
ある女性が、ロリータファッションで東京都内を歩いています。
すると、部屋着で外出をしている(!?)と思われる高齢の男性が
「うわあ!なんだ、この女の服装は!お化けだ!」
と、アンチコメントを発しました。
その5分後、ロリータ雑誌の編集長をしている人から
「最高だ!写真を撮らせてください。写真が駄目ならば、せめて私の名刺を渡させてください。」
と声を掛けられた。ある種のいいね、です。
否定的な声が1件。
肯定的な声が1件。
数では同じですが、部屋着で外出している人の意見と、目の肥えた編集長の意見は同じ加重で考えるべきなのでしょうか?
あるいは親友の意見と、見ず知らずの人からの意見。
即ち、気心知れた人の意見と赤の他人の意見は同質なのでしょうか?
親友からの
「それ、かわいいね!」
他人からの
「かわいい!」
は、重さが同じなのでしょうか?
私としては、いいねに振り回される問題点は、その人の価値に沿った適切な加重がされていないことだと思うのです。
私がふかわさんと同様のコラムを書くならば「いいね」と「どうでもいいね」を見分けよう、と題することでしょう。