「ほとんど日本人」で良いのか?

「ほとんど日本人」という人物は存在するのでしょうか?
こう問いますと、たいがいは
「おまえはバカだ。大バカだ。
日本の法律は重国籍を認めていないから、日本国籍所有者とそうでない者に白黒と分けることができるんだ。
こんな簡単なことも理解できないのか?」
と返されます。
おっと、私は舌足らずでした。
私は法律の話ではなくアイデンティティーの話をしています。
国際化が進み、様々な人が国境を越えて別の国に住むようになりました。
この潮流は日本でも例外ではありません。
結果として、外国出身者が近所に住んだり、あちこちで働いている姿を見かけるものです。
そうなりますと、移民2世として日本に生まれたり、幼くして日本に移住したり、親のどちらかが外国出身であったり。
日本で育ち、思い出も友達も全て日本にある、という多様な背景を持つ人々は増えていることでしょう。
ただ、そこで直面するのが「私は日本人なのか?」という声です。
それは内なる声でもあり、周囲からの声でもあることでしょう。
どうしても
「日本人とはどういう人ですか?」
と問うと
「これこれの外見です。」
と回答されることが多いですが、それらには暗黙の内に
「祖先はどこまで遡っても大和民族だけ。これは父母どちらの家系にも言えること。
そして当人は日本生まれの日本育ち。
これが共通認識だ。」
と設定されていないでしょうか。
ゆえに、その条件を完璧に満たしていない自らに対して疑問を持たざる負えないことは、多様なルーツを持つ人々には見られることでしょう。
そうなると、どこか自己主張を抑制して
「ほとんど日本人です」
と言うに留める人がいるとのこと。
しかしながら、そもそも
「日本人とは?」
「日本社会とは?」
「日本の歴史とは?」
などに対する問いの実態が、思っているほど純度(!?)が高いのでしょうか?
【注】日本国外にルーツを持つ方がを、決して異物扱いする気持ちはありませんが、あえて挑発的に「純度」という言い方をしています。
江戸時代の日本を見てみますと、英国出身のウィリアム・アダムズが日本で活躍しています。

ウィリアム・アダムズ
画像引用元:ウィリアム・アダムズ
江戸幕府の徳川家康に重宝され、造船技術の向上に貢献しています。
その結果として、日本名の三浦按針の名を得て、さらに領地を与えられて武士となり、日本人の妻を得ています。(細かく言うと、英国に先妻がいたので後妻を得たことになります。)
アダムズのことは、日本史の文脈において言及すべきであり、決して英国史において言及するものではありません。
そして彼の墓所は日本にあるのですが、遺骨を掘り起こして英国にて再埋葬するべきでしょうか?
こういう主張をすると奇抜に見られるのは自然なことです。
ですが、アダムスは英国出身ですよ?それで良いのでしょうか?
いいや、彼の永眠場所は日本であることに異論は出てこないことでしょう。
彼は日本の歴史や文化の一部となっているのです。
時代をさかのぼりまして、明治時代。
英国籍を持っていたアイルランド&ギリシャ系のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の例を挙げます。

小泉八雲
画像引用元:小泉八雲
彼は出版社の通信員として来日し、そのまま日本に定住。
教師として教鞭をとりながら、日本文化を熱心に洞察。
日本人の妻を得て、日本国籍を取得して小泉八雲を名乗っています。
彼の旧居は1940年に国史にしていされています。
しかし、これは良いのでしょうか?
小泉八雲は、元は英国籍でしたので、日本政府ではなく英国政府が史跡にするべきではないのでしょうか?
いや、それは詭弁でありましょう。
彼を日本史の一部として受け入れられているからです。
今度は小笠原諸島に目を向けてみます。
小笠原諸島は1876年(明治9年)に明治政府が領有を各国に通知したのですが、その時点でヨーロッパ系の白人やポリネシア系の人々が住み着いていました。
彼らの多くは、そのまま日本国籍を取得しています。

20世紀前半、ヨーロッパ等にルーツを持つ、日本国籍の小笠原住民
画像引用元:欧米系島民
どんどん
「日本人とは?」
が崩れていくことと思います。
更には昭和時代のヒーローたちを見てみます。
日本プロレス界の父と呼ばれる力道山。

力道山
画像引用元:力道山
彼は両親がコリア系で朝鮮半島の生まれです。
直木賞作家で数々の作品が映像化された立原正秋。

立原正秋
画像引用元:立原正秋
彼は
「父も母も、日本と韓国のミックス」
なることを主張してきました。しかし死後の調査において、両親ともにコリア系で日本の血は引いていないことが明らかになっています。
日清食品の創業者で、カップヌードルの開発者である、安藤百福(あんどうももふく)。

安藤百福
画像引用元:カップヌードルミュージアム
彼は日本統治下の台湾において、台湾人の両親の元に生まれています。
日本が敗戦した後は、21年間、日本国籍を取得するまで中華民国の国籍でした。
数々の日本のヒーローたちの背景は、大和民族ではないのです。
こうなってきますと
「日本人とは?」
等に関する定義が、想像の共同体の産物を目安にして定義されているとしか思えなくなってきます。
つまり、暗黙の目安事態だが正しいのか?
正当性があるのかを疑ってくる他ありません。
今度は海外に目を向けてみます。
英国籍で英語で執筆する作家、カズオ・イシグロ。

カズオ・イシグロ
画像引用元:カズオ・イシグロ
日本人の両親の元に長崎県で生まれましたが、5歳の時に家族で渡英。
英国の小学校をはじめ現地の学校に通い、大学もケント大学を卒業。
小説は英語で執筆し、王立文学協会賞、ウィットブレット賞、ブッカー賞を受賞。
決して芥川賞や谷崎賞を得ているわけではないのです。
イシグロ氏を日本の文壇の流れにおいて位置づけできるのでしょうか?
政治の世界を見てみます。
ペルーの日系人大統領、アルベルト・フジモリ。

アルベルト・フジモリ
画像引用元:アルベルト・フジモリ
日本出身の父母の元、ペルーにて生まれ育ちました。
出生届がペルーの在外公館にも出されたため、日本国籍も有することになりました。
ペルーの国立大学を卒業し、大学教授を経て政界に進出してペルーの大統領となっています。
しかし、ペルーの政局が不安定化した結果、2000年に大統領職を放棄して日本に亡命同然の滞在をすることとなりました。
日本滞在中は、もっぱらスペイン語を話していたそうですが...
なんと2007年の参議院選挙に出馬!
日本語をろくに話さない人物の立候補には、私は違和感を感じます。
お次も政界。
今度はアメリカです。

メイジー・ヒロノ
画像引用元:メイジー・ヒロノ
アメリカ史上初のアジア系女性上院議員です。
彼女は日本人の両親の元に福島県に生まれています。
8歳の時に母に伴われてハワイに移住。
やがてアメリカに帰化し、アメリカの大学で学び、政界に進出しています。
彼女を日本の政治家と呼べるでしょうか?
それは無理であり、アメリカの政治家と呼ぶべきです。
改めて問います。
「日本人」
という姿は、本当に強固な姿として定義できるのでしょうか?
我々が想像していたよりも、その姿はクレオール性に富んでいる。
ならば、自らが外国生まれであるならば出身国回帰に走るのではなく、さりとて卑屈になって大和民純粋性神話の崇拝に走るわけでもなく。
クレオール性を大々的に肯定する道を選んで良いのではないでしょうか?
そして、いびつな物差しで測った「ほとんど日本人」という算出結果は良いと呼べるのでしょうか?
私にはクレオール性を肯定しないでいる理由はが見えてきません。